今年5月に開催した個展での出来事。
江の島駅から江の島へ向かう一本道、すばな通り商店街の一角にぼくが写真展を開催したギャラリーはある。
それはGW明けの平日、曇り空でどこか薄暗い午後のことだった。
今日は暇そうだな。
GW明けの平日とあって人通りも少ない。
そんな誰もいないギャラリーの中に、ひとり男が立ち尽しているのも如何なものかと思い、誰もいない時は裏口に引っ込み、影からそっと誰もいないギャラリーを眺めていた。
ただ、誰も来ないギャラリーをずっと眺めているのは暇で、本を読んだり、ご飯を食べたり、近くをふらふら散歩しながら、のんびり江の島での時間を過ごしていた。
そして暫くギャラリーから離れ戻ると、数人のお客さんが写真を眺めていた。
ぼくがギャラリーから目を離すとお客さんが来るというのは、個展を数日やって分かったぼくなりのジンクスである。だけど特に何か話しかけるわけでもなく、少し離れたところでそっと見守っているのであった。
少し時間も経つと、一人、二人とお客さんがギャラリーの外に出てくる。
「ありがとうございました」
ぼくは外でそっとお礼だけを伝える。
ふとギャラリーの奥に目を移すと、小柄で品の良さそうな初老の女性がひとり、一枚の写真をずっと眺めていた。
しばらく外で見守っていたが、やはり気になりそっと横に周り話しかけてみた。
「今日はありがとうございます。ずっとこの朝日の写真をご覧になっていましたね」
「えっ、これ朝日だったの?あたしはてっきり夕日だと思って見ていたの」
「そうなんですよ。これは朝日なんです。この壁一面は端から一日の流れになっていて、左上から順に日の出前から日の入り後まで、右下から順に日の出前から日の入り後までを時系列に並べた作品なんですよ」
「あら、そうだったの。なんだか懐かしい気分になっちゃって、あの新宿御苑の写真もいいわね」
「わっ、よくあれだけで新宿御苑だって分かりましたね」
「新宿御苑はお友達と毎月のように行ってるの、でもあんな景色があったなんて今まで気がつかなかったわ・・・」
その後も初老の女性は、新宿御苑のこと、今は北鎌倉に住んでいること、東日本大震災を機に東北方面から引っ越してきたこと、ご主人がカメラマンであることなど、そのエピソードに独特のユーモアを交え面白おかしく話してくれた。
その間もちらほらとお客さんは来てくれたが、ぼくは初老の女性と話すことをやめなかった。接客として考えれば失礼な話しかもしれないが、ぼくは彼女の話に集中することにした。
なぜなら、ぼくが個展をやる目的は、自分が撮った写真を通じて誰かと心を通わせ、語り合い、人と人としての深い繋がりを求めていたからであった。
だから今は全身で、この初老の女性との対話に集中したかったのだ。
その初老の女性との対話の中で、何度も登場するカメラマンであるご主人の話し・・・
「主人は本当に勝手な人でね。『おい、今から行くぞ』なんて言って、あっちこっちに撮影で連れ回されたわ。ほんと勝手な人」
「でも、いつも撮影に奥さんを連れて行くなんて素敵なご主人じゃないですか」
「う〜ん、ただのアシスタントとしか思ってなかったわよ、きっと」
「それはどうですかね。ぼくも自分の好きな場所には家族を連れて行きたくなりますし、もしかしたらご主人も・・・」
「う〜ん、そうね。今となっては分からないわねぇ」
「どうなんでしょうね」
その後もしばらくご主人の話しをしていると・・・
「主人は夕日が好きでね。最後の撮影なんてひどいものよ。依頼主も年寄り、カメラマンも年寄り、アシスタントも年寄り。み〜んな合わせて200歳超えよ。それでもね、最後までやりきったんだもの・・・」
「最期まで主人はプロカメラマンだったわ」
ぼくはなんとなく気づいていた。
ご主人はもう亡くなっているのだろうと。
ただ何も言うことなく、初老の女性がその半生を目の前で紡ぎだす瞬間を共に過ごすことにした。
その時、自分がどんな言葉をかけたのか、かけていないのか、あんまり思いだせない。
ただ、何を言ったらいいのか、どんな言葉をかければいいのか分からず、何度も頷いていたことだけは覚えている。
そして幾分か間をおいて女性の顔に目を移すと、その顔は実に晴れやかであった。
その隣でぼくがめそめそしているわけにはいかない。
それでもただ彼女の目を見て頷くことしかできなかったが、彼女にはしっかり伝わっていたと思う。
しばらく彼女もぼくも写真を見ながら立ち尽くしていた。
ちょうど他に誰もいない、ただ静かな時間だけが流れていた。
穏やかな対話から生まれた言葉のいらない時間。
その時間、彼女が何を考えていたのかは分からないが、ぼくはさっき聞いた話しを振り返り、自分がこの世を去った時に何を残せるのだろうかと考えていた。
彼女が話しをしている時、ご主人は確かに生きていた。
それは彼女の心の中で、そして心から紡ぎだしてくれたその言葉の中で、ご主人は確かに生きていた。
たとえ、その身がこの世から消えても、魂は彼女の傍に在り続ける彼の姿をぼくは確かに感じた。
そんな彼が傍にいるから彼女はいつまでも女性として、人として凛としていられるのだろう。
「また、写真展をやるときは教えてくださいね」
「もちろんです。今日、お会いできて良かったです」
初老の女性は紙とペンを出し達筆な文字で名前と連絡先を残すと、江の島の方へ向けて歩き出した。
ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
空はさっきより少し明るくなっていた。
なんだか今は誰もいないギャラリーの静けさが心地よかった。
流れていたBGMも止まり、ひとり物思いにふける時間を作ってくれた。
自分の中で、ぼんやりとしていた何かが確信に変わる。
幸せに生きるため、必要なことはそう多くはない。
そしてこの世に遺すべきことも、そう多くはない。
いつか遠く離れても、変わることのない何かを、ぼくは妻と二人の子に、遺して生きたいと思うのである。
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