自己中心的に生きることと
自分基準で生きることは
似て非なるものである。
自分基準で生きるとは
自分の価値基準を持つことであり
身勝手な振る舞いや
他者をないがしろにして
自己中心的に生きるということではない。
ネガティブな存在
朝の満員電車、意味の無い会議、作業に集中している時にかかってくる電話、何かと先輩風を吹かせてくる上司、顔見知りというだけで商売の勧誘をしてくる知人・・・
何かと時間を取られたり、モヤモヤと考えてしまい、自分にとってはポジティブに捉えきれない存在がある。
すべての出来事に良いも悪いもなく、それをどう捉えるかは個人の捉え方次第なのだ・・・と思ってはいるものの、全てを心からポジティブに捉えられる程ぼくは出来た人間ではない。
だからポジティブに捉えきれない出来事は、諦めて断ち切る方向で考えるようにしている。
ただ、それすらもポジティブに捉えることができれば、心の整理整頓で解決できない問題を、行動によって解決するための術を学ぶ機会を得たということになる。
そう考えてみると多くのネガティブだと感じる出来事の中にも、生きる知恵として学びの要素がたくさん散りばめられているのだ。
選択肢は自分にある
朝の満員電車や意味の無い会議。
それにいくら文句を言っても現状は変わらない。
不快感を断ち切るためには具体的な行動が欠かせないのだ。
ちょっと余談になるが、ぼくの人生は満員電車の中に沢山の思い出が詰まっている。
実は18歳で上京したての頃、寒がりのぼくは満員電車のギュウギュウ詰めの状態が暖かくて結構好きだったのだ。
(やがて夏になり、汗ばんだ他人の肌と触れ合うことで一気に不快感の対象となったが・・・)
社会人1年目、飲食店で朝から晩まで猛烈に働いていた頃、通勤の満員電車に揺られながら様々な本を読み漁り、自らの人生を切り拓く勇気をもらい、それから転職に踏み切ることができた。
不動産業に転職してからは、宅建の資格を取るために1年半もの間、問題集を解きながら満員電車に揺られ通勤する日々を過ごしてきた。
会社に着くまでにここまではやりたい、そんな小さな目標を定め日々少しずつ進んできたことを今はとても懐かしく思う。
確かに満員電車は不快な対象ではあるが、その限られた時間を有効活用することで、これまでタダの不快な時間であった満員電車を学びの時間に変えることも出来るのだ。
そして本当に心底不快であるならば、満員電車に乗らなければいいのだ。
満員電車に乗らないためには、朝早めに起きて電車が混まない時間に出勤すればいい。
そして会社に早めに行き仕事を片付けるのもいいし、近くのカフェで読書をするのもいい。
ぼく自身、会社員時代は早めに会社に行って仕事を片付けるか読書をしていた。
そしてたまに会社の近くのカフェに行き読書をするのも気持ちの良い時間であった。
ただそれを毎日していたわけではない。
結局、早起きする辛さが満員電車に乗る辛さを上回ることが多く、満員電車に乗る朝の方が多かったのだ。
だから満員電車に乗る日々を断ち切ることも出来るという選択肢を持ちながら、満員電車との良い付き合い方を考えた結果、タイムリミットのある学びの時間となったわけである。
満員電車に揺られながら「まだ降りたくない」と思っていた自分は、一般的にはネガティブな出来事を自分なりにポジティブに捉えていたようである。
心を手放さない技術
意味の無い会議、作業に集中している時にかかってくる電話。どちらも自分にとっては時間や集中力を奪うネガティブな存在である。
会社員時代、意味の無い会議が本当に嫌いだった。
いま思えば勤め先の会社にとっては意味のあることだと理解できても、当時の自分にはそこまで見えていなかった・・・
だから正確には「自分には意味を見い出すことが出来なかった会議」ということになる。
なので未熟な自分の戯論だと思って聞いていただきたい。
当時、不動産の営業職で歩合給が付く会社に勤めていたこともあり、ぼくは会社員時代から自らを個人事業主だと考えていた。
その個人事業主として考えられる営業職を皆集めて行われる会議の議題は、会議が始まってから決めるという、会議のための会議が上司の主導で行われていた。
ぼく自身、会議のやり方に口を出した時期もあったが「君は業界歴が浅いから」という理由で流され、会議のやり方を変えることはできなかった。
いや、正確に言えば、会議のやり方を変えるために自分の労力をこれ以上使いたくなかったのだ。だからそれ以上口を出すことはやめた。
つまり、このとき既に勤めていた会社に思い入れや会社愛はなかったのである。
だから会議の時間は自分で一人会議をすることにしていた。
一人会議といっても会議の場にはしっかりと出席をする。
社員である以上、会社の方針通り動くのは一つの義務だと思っている。
ただ、会議の場に出席はするが、自分の心は絶対に渡さない。
目の前には会議の資料と自身の手帳と筆記用具のみ。
その会議の資料に目線を落としながら、自分の今気になっていることを手帳に書き出し、対策を考えていく。そうすれば意味の無い会議の時間も自分の時間として有効に使うことができる。
会社は社員の身を拘束することは出来ても、心や思考まで拘束することはできないのだ。
そして会議中たまにされる質問には「もう少し自分なりに整理して考えたいと思います」と嫌みのない真顔で答えることにより、その殆どをかわすことができた。
その回答はぼくにとって電話で流す自動音声のようなものである。
そう、電話といえば、集中している時にかかってくる電話が本当に嫌いだった。しかし、考えてみれば電話に出なければいいだけのことだったのだ。
集中している時間は無理に電話に出なくても。
忙しい時間帯に無理して電話に出なくても。
駅のホームで無理に電話を受けなくても。
自分が電話をする時間帯を決め、その時間内でコールバックしたり、かかってくる電話に応対すればいいのだ。
なんとなく「かかってきた電話にはでなくては・・・」という心理が働き、仕事が電話に振り回されることが多かった。
しかし自分が電話の応対をする時間を決めたことにより、仕事がスムーズになっただけでなく精神的にとても解放されたのだ。
かかってきた電話に出るということは何となく当たり前になっていたが、しっかりと自分基準を定めたことによりネガティブな存在が一つ消えていった。
付かず離れず少しずつ離れていく
何かと先輩風を吹かせてくる上司、顔見知りというだけで商売の勧誘をしてくる知人・・・
自分的には関わりたくはないけれど、その関わりをすぐに解消することが出来ない関係というものは誰にでもあるだろう。
それは憂鬱で苦しくてジワジワと心の中を蝕んでくる。
だからネガティブな感情を抱く人間関係に関わらずに済む方法があれば、今すぐに全部出来なくても少しずつ関わらないように距離を置くことを勧めたい。
そして、ここで重要なことは「争いを起こさないようにする」ということである。
ただ、争いを起こしてでも白黒ハッキリさせたい、という人もいるだろう。なにより、ぼく自身が昔は頭に血が上りやすく白黒ハッキリさせたい人間であったのだから。
しかし、白黒ハッキリさせようとして争いごとになると、例え自分が争いで勝ったとしても、負けた方には何らかの因縁が残り、不要な恨みを買うことにもなりかねない。
なぜなら自分にとっての正義は、相手にとって悪ではなく、相手にとっても正義であるのだから。
正義の味方が悪に負けたら、必ず誰かが敵討ちに行くだろう。
相手にとっての悪である自分が争いで勝ったら、正義を盾にした相手が姿を変え敵討ちに来ても何ら不思議ではないのだ。
だからぼくは争いごとを好まない。
だけどネガティブな存在からは距離を置きたい。
この事に関しては、ぼくもまだ実験中で効果的な解決策を提示できるわけではない。
ただ、ネガティブな存在を空気のように何事もなかった存在へ戻していくためには・・・
相手に引いてもらうことであると思う。
自分は関わりたくもないし争いごとを起こしたくもないので、出来る限り引いているところへ、相手がズカズカと入ってくるから不快なわけであって、相手が引いてくれたら自分はそれでOKなのである
だから相手が引くような立ち居振る舞いをしていくことが、争いを起こさずネガティブな存在を遠ざける在り方なのかもしれない。
そういった他者の存在も踏まえ、自分基準で生きるということは、誰かをないがしろにしたり、身勝手な振る舞いをする自己中心的な生き方ではなく、自分の価値基準を大切に守る勇気と供にある生き方なのだ。
ここで学んだこと
・何かを変えるには具体的な行動が欠かせない。どうしてもネガティブに捉えがちな出来事であっても、ポジティブに捉えれば心の整理整頓で解決できない問題を、行動によって解決するための術を学ぶ機会を得たということになる。
・外部の力により、この身を拘束することは出来ても、心や思考までを拘束することはできない。だから自分の思い通りにならない時間でも、自分の自由に捉え考えることはできるのだ。
・自分にとっての正義は、相手にとって悪ではなく、相手にとっても正義であるのだ。だから争いごとでどちらが勝ったとしても、負けた方は正義を盾に敵討ちをすることが正義にもなる。よって争いごとで物事を解決するのは労多くして功少なしと思える。
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