写真を撮ることも好きだけど、文章を書くことも好きで、
ビジネスでお金を稼ぐことを楽しめる自分もいる。
このそれぞれ異なる要素は、それぞれにぼくを楽しませてくれる。
だけど、楽しいからってやりすぎてもいけない。
やりすぎは逆効果になることもある。
だから自分が対象に欲している必要量を知り、適正に満たしていくことで、
人は喜びを覚え、幸福感に包まれ、また成長していくことができるのだと思う。
初めての転職
それは手段か目的か?
いつまでもこんな日が続くわけじゃない。
汗と油でドロドロになった帰り道。
いつも呪文のように唱え、自分に言い聞かせていた。
毎日15時間半労働で週6日勤務の料理人時代のこと。
20代前半、調理師をやっていたぼくは自分の店を持つという目標を叶えるため、あえて厳しい環境に飛び込んだ。結果として、その狙いは当たり一流と言われるシェフのもとで学び、技術的にも知識的にも料理人としてのスキルは格段に高まった。
しかし、以前は楽しくやれていた料理も、「楽しい」よりも目の前の仕事を熟すことに精一杯なのと、店の看板を汚すわけにはいかないというプレッシャー、シェフに怒鳴られたくないという恐怖心、だけどここで技術と知識を盗み覚えてやる、という執念のようなものだけが自分を仕事に駆り立てていた。
しかし、もう肉体的にも精神的にもボロボロであった。
自分は料理の何が好きなのか?
何のために自分の店を持ちたいのか?
そんな自問自答を繰り返しつづけ出てきた答えは・・・
「店に来てくれた人を喜ばせたいから」というものであった。
その「店に来てくれた人」というのは・・・
お客さんであり、店のスタッフであり、かかわってくれる全ての人である。
そう考えたとき、いまの自分がどこまで出来るのか試してみたいと思った。
料理人としてまだまだ未熟であると十分自覚はしていたが、自分にも美味しい料理を作ることはできると思っていた。その美味しい料理を物質的な売り物として、お店に来てくれた人に喜んでもらえる空間や雰囲気を売りたかった。
ぼくはそれまで5年ほど料理の修業をしてきたが、料理の技術を売りにしたいわけではなく、「楽しい」とか「幸せ」とかって思ってもらえるような場所を作りたかった。つまり、目的はその舞台を作ることで、その舞台設定が飲食店であり、その舞台に上がるための1つの手段として料理があったのだ。
当時、自分が欲しいていたものは料理の技術や知識よりも、店にかかわってくれる人を笑顔にできる空間作りや店作りであった。だから、ぼくは自分がもっと店作りから携われる店に転職した。
転職前の毎日15時間半労働の週6日勤務という労働環境は、料理の技術や知識を飛躍的に高めてはくれたが、それは自分が欲している必要量を大幅に超える過剰摂取とも言える状態で心身ともにボロボロになった。
ただ、いま振り返っても二度と戻りたくはないが、仕事人としての在り方のようなものを叩き込まれ、自分に本気で向き合わざるを得ない環境に身を置けたことは、ぼくにとって一生の財産であると思っている。
自分の関心を知り
適正に満たしていく
体育も好きだけど、理科も好きで、それに現代文も好きだった。
それぞれ交わることのない分野をそれぞれに好きだった子供の頃。外で体を動かすことも好きだし、教室の中で実験をすることも好きで、それに何か物語に浸る時間も好きだった。
ただ、学校の授業では時間割が決められていて、体育の時間は理科と同じくらいで、理科の時間は現代文よりも少なかった。でも、ぼくはもっと体育の時間が欲しかったし、現代文よりも理科の時間が欲しかった。
つまり時間割上、ぼくが欲している必要量に対して体育の時間は不足していて、現代文の時間は過剰であった。だから楽しいはずの現代文の時間も、自分の欲している必要量を超えてやらなければいけないことで、「好き」や「楽しい」という気持ちより「退屈」や「不満」という気持ちばかりが芽生えていった。
これまで「好き」だった対象が、そうではなくなるとき。そこには「強制」や「義務」つまりは「やらなければいけない」という外的な圧力が加わっていることが多い。
もし、自分で好きに時間割を組むことができたら、学びの時間はもっと楽しくなるのではないだろうか。そもそも好きなことには多くの時間を使いたいし、いま自分にとって最も関心のあることには尚更多くの時間を使いたいと思うのは自然なことだろう。
ただ自分の関心が複数ある場合、有限なる時間はそれぞれに適正に配分しなければならない。そして、その配分はいつも均等ではなく不均等で偏ったものとなる。
その有限なる時間を適正に配分するために、自分の関心ごとである「好き」に対して自分がどれだけのことを求めているのかを知り、それを適正に満たしていくことが、自分を最も喜ばすことができる1つの方法なのではないだろうか。
もちろん例にあげた学校の時間割では、それが難しいことは知っている。
しかし、大人になったぼくたちは自らの手で、自分だけの時間割を作っていくことができるのだ。
好きと楽しいを軸にした
自分だけの時間割をつくる
自分が何をどれだけ求めているのかを知っていれば、
適正にそれを満たしていく自分だけの時間割を作ることができる。
なるべく好きなことをして、なるべく楽しく生きたい。
いつも全部がすべてそう思い通りにはいかないけれど、自分がどこに向かっているのかさえ明確であれば、しばし道が逸れてしまうことがあっても軌道修正を繰り返し、必ず目的地にも辿り着ける。
はじめから完璧にはいかないけれど・・・
たとえば好きなことを仕事にしたいと決めたのなら、先ずは好きなことになるべく近い分野で生活していけるような仕事から始めてみるのもいい。そしてもし、その仕事の延長線上に自分にとって本質的な「好き」があるのなら、そのまま極めていけばいい。
たとえば今の仕事の延長線上には自分の本質的な「好き」がないとしたら、より自分の「好き」を追求できる場所や活かせる場所に転職をしたらいい。
たとえば転職をしなくても、もっと「好き」を追求できる仕事やそれを活かせる仕事を掛け持ちでやってもいい。それはフルタイムの仕事でなくても、パートタイムやアルバイトでもいい。
好きと楽しいを軸にした自分だけの時間割をつくる上で重要なことは、日々の仕事と暮らしの中で、どれだけ自分が「好き」を感じられるかである。
正社員であってもいつリストラされるかも分からない時代、大企業に勤めていれば安心というのはもう過去の話で雇用形態が安心に直結しなくなってきている。だからと言って「好き」を仕事をした結果、1つの職場からの収入では生活できないこともあるだろう。そしたら2つ、3つと職場を増やしていけばいい。
これは会社経営をして身に染みて分かったことだが、取引先が1社のみというのは相当に危険な状態である。それは個人であっても同様で2つ、3つと収入源となる職場を増やしていくことは生活の安定に繋がる。
その複数ある仕事のうち、好きな仕事だがお金にならない仕事があったとしても、他にそこそこ好きな仕事でお金になる仕事があれば生活はしていける。そうやって生活していける状態さえあれば、少しずつ好きな仕事でお金を稼げるようにしていけばいい。
好きな仕事でお金を稼げれば、そこそこ好きな仕事は少しずつ減らしていくこともできる。同時にそこそこ好きな仕事の生産性を高め、短い時間で仕事を完了できるようになれば、その分の時間を好きな仕事の練習や仕事そのものに当てることもできる。
上手くなるには何事も練習が必要なのは当たり前の話である。その練習時間を自分だけの時間割に組み込み、ゆくゆくは仕事の柱となるよう鍛錬を重ねていくのだ。
自分が何をどれくらい欲しているのかを知り、それを適正に満たしていく。
そのために好きなこと楽しいことを軸にして自分だけの時間割をつくる。
そんな「好き」という思いを真ん中にした選択と配分の連続は、ぼくの毎日を少しずつだが確実に味わい深い日常へと変えつづけてくれている。
毎週水曜よる9時更新