2017年8月25日配信。
WEBマガジン「ORDINARY」掲載記事より(一部改変)。
原文ママの記事はコチラ↓↓↓
TOOLS 102 好きなことの本質に気づく方法 – 起業すれば自由になれるのか? / 若杉アキラ | ORDINARY(オーディナリー)
あんなに欲しかった自由な時間・・・その「時間だけ」を手に入れても幸せではなかった
起業後すぐ倒産の危機に陥ったぼくは、いつも恐怖に追い立てられていた。
「家族を守るため、自分のプライドのため、絶対に会社を潰すわけにはいかない」
<倒産>の二文字をいつも背中に感じながらぼくは、猛獣から逃げる草食動物のごとく、がむしゃらに走った。
「とにかく、今日を生き延びなければ…」
歯を食いしばり、預金残高とにらめっこしながら3年ほど走ったおかげで、ようやく「自由な時間」を作ることができた。
必要以上の拡大を望まなければ、週3日働けば十分に暮らしていける生活の基盤もできた。まだまだやらなければいけないことも多いけれど、確かに自由な「時間は」できた。
ただ、自由な「時間は」できたものの….. ぼくの「心は」幸せからは程遠いものであった。おかしいぞ、と考えていくうちに、心が満たされない原因がわかってきた。
せっかく自由の身になったのに、したいことが何もない。自分のやりたいことが分からない… これが大きな原因だったのだ。
起業して3年、がむしゃらに働いていた頃は、見て見ぬ振りができた。目の前の仕事に打ち込むことで、今日より明日が良くなると信じていた。いや、正確に話せば、「信じていた」のではなく、信じていたかった。
そう信じていなければ、休みもろくに取らずに働き続け、家族と過ごせる時間を犠牲にし、古い友人からの誘いにも不義理をし、目の前にあった喜びに蓋をしてきた自分自身を受け入れることができなかったのだ。
「自由な時間をつくりたい」
もともと、その思いで事業方針は「規模の拡大」ではなく、「事業の自動化」を目標として、自分の身を解放することに集中し、目標に向け一直線に突き進んできた。目の前にある喜びや楽しみは後回しにしても、目標の達成が全てを解決してくれると信じていた。
だから、できる限りのスピードで必要なだけの収益を上げて自動化し「自由な時間」さえできれば、おのずと自分のやりたいことも分かるだろうと考えていた。しかし実際に、自由な「時間は」できたものの、自分のやりたいことは分からないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「好きなことが分からないって、結構つらい… 」
ぼくは約3年もの間、自分のやりたいことが分からないまま「心は」モヤモヤとするばかりであった。結局、時間だけが自由になっても心の喜びが伴わなくては「本当の意味で自由になることはできない」ということを痛感した。
モヤモヤする日々は、家族の存在に救われた
起業して3年、がむしゃらに働きやっとの思いでつくり出した自由な時間。
しかし、その自由な時間も「もし再び仕事が上手くいかなくなったら… 」という恐怖心から、結局はまた仕事の時間となり消えてしまった。
いま思えば必要のなかった「提案資料の作成」や「経営分析の時間」に使い、仕事のための仕事が増えていくばかり。自由な時間を楽しむ心の余裕などは、どこにもなかった。
どんなに完璧な資料を準備しても、どんなに深く分析をしても「不安を埋めるための準備」には際限がない。不安にかられた人間は「まだ足りない・・・」という不安の無限ループにはまってしまう。
ただ、そんな日々の中で唯一の救いは家族と過ごす時間が以前より増えたことであった。毎日夕食を一緒に食べられるようになったり、子供をお風呂に入れることができるようになったり、一緒に遊びに行ける時間も増えた。
「今日はパパとお風呂に入りた〜い」
帰宅して玄関のドアを開けると3歳になったばかりの娘がパタパタと駆け寄ってくる。そんな日常のさりげない1コマを心から愛おしく思う。
いつも定時に帰れるパパなら当たり前の生活が、今まではできなかった。その理想とする生活が少しずつできるようになってきた喜びは、好きなことが見つからずモヤモヤと過ごす日々の中で唯一の救いであった。
だからモヤモヤとする日々が続いても、家族という絶対的な心の支えがあることで、気持ちを落ち着かせ、今できることに集中しようと思えたのだ。
ひとり静かに、心の声を聴いてみる
自分のやりたいことが分からない。
好きなことすら何なのかも分からない。
どうしたのだろう、もしかしたら長いこと自分の喜びに蓋をしすぎて、感情がなくなってしまったのだろうか。
ビジネス繋がりの人が「儲かるアイデア」を持ち込んでくれることは、たびたびあった。しかし、ただお金が得られるからという理由だけで何かを始めることはしたくなかった。
中には一見ワクワクして楽しそうに見えるものもあったが、一人静かに自分と向き合うことで「そこに自分にとって心の喜びはない」と気づき、踏みとどまることができた。
いつものカフェにこもり、自分の内なる声に耳を傾けていく。それはただ一人、心静かな時を持つということである。
しかし、心の声はいつも聞こえてくるわけではない。聞こえてくる時もあれば、聞こえてこない時もある。いくら時間を費やしても、ただ悶々としている時もある。
そんなとき、自分の「内なる声」を引き出してくれるのは書物であり、その中で出逢う著者たちであった。ひとり悶々と悩み考えていたことも、本を読むことで新たな視点を得ることができ、また違う角度から物事を考えることができるようになった。
そして何より、本を読むことで著者という心の友ができたことは自分にとって大きな喜びであった。本の中に宿る心の友に、言葉にならぬ心の内を話していく。
本という存在があったからこそ、ぼくは自分の心の声を聴き続けることができた。心の声を聴き続けることで「自分にとって取るに足らない生き方をしてはいけない」と自らを律することができたのだ。
つまりそれは、自分にとっての本質を大切にして生きるということである。
〈後編〉につづく
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