「普段は何をやってるのですか?」
最近いろいろな人に聞かれるようになった。
・・・
「パトロンですよ」
ぼくがそう答えると多くの人は目を丸くする。
(ただ、そう言って怒られそうな場面では決して言わない)
そして、ほとんどの人が・・・
「ここは触れてはいけないところだな」ということを察して別の話題に移してくれる。
だけど時々深く突っ込んでくる人もいる。
だから時々聞かれれば話すけど聞かれなければ話さないことを話すこともある。
それは日々のこと・・・
書くこと、撮ること、稼ぐこと。
書くことは・・・
こうやってブログを書いたり寄稿させてもらえる媒体に自分の考えや思いを綴ること。
撮ることは・・・
生きること、ぼくにとって写真を撮ることは生きること。それは自分の心が動いた瞬間の記録を付けるということ。
稼ぐことは・・・
生かすこと、お金を稼ぐことは自分を生かすということ。その生かされた時間を使い、ぼくは自分の人生を生きている。
「書くこと」と「撮ること」は自分を表現するということ。
その表現する自分の存在を助けるために「稼ぐこと」が必要になってくる。
なぜならば、生きていくためのお金が足りなくなってしまうと、自分を表現している場合ではなくなってしまうから・・・
つまり生きるためのお金が足りなくなってしまうと、本来は自分の好きに使えていた時間さえも、生きるためにお金を稼ぐ時間に使わざるを得なくなってしまうのだ。
だから自分の好きな活動や表現を続けていくためにも、お金のことはしっかりと考えていかなくてはならない。
ぼくが不動産屋になった理由
むかし勤めていた飲食店の話し。
そこの大家さんは懐石料理屋の店主であった。
その大家さんは、ぼくの勤めていた店が入るビルの他にもマンションや駐車場を持っていて、なんだかいつもゆるりとした空気を感じる人であった。
その大家さんはよくうちの店にもご飯を食べに来てくれた。
そこで見る大家さんとしての顔、そして懐石料理屋の店主としての顔。
この2つの顔を持つ大家さんを間近で見ていてぼくは思った。
「わかった!大家さんをやりながら、好きなことをやればいいんだ」
当時24歳、調理師として毎日朝から晩まで働き続けていた自分にとって、この先の働き方を変える大きな転機であった。
それから本やセミナーで、大家さんになるためにはどうすればいいのか、ということを学ぶ日々が始まった。
そして調理師を続けながら1年ほど不動産の勉強した後に不動産業界へ転職した。
転職理由は単純だった。
不動産にハマってしまったのだ。
不動産の勉強をしているうちに料理よりも面白くなったしまった。
もちろん6年間続けたきた料理の世界を離れることには抵抗もあった。
しかし、もしもまた料理の世界へ戻りたくなったら戻ればいいという思いもあった。
自分の信じる道に進み、違うと思ったらいつでも引き返せばいいのだ。
ただその時が来るまで、やれるだけやってみようと思い、自分の心に従い転職をしたのだった。
起業してしまったという誤算
ぼくは大家さんになりたかった。
不動産を買って人に貸出して家賃収入を得る。
仕組みがとてもシンンプルで、これなら自分にもできそうだと思ったのだ。
だから不動産業界へ転職して賃貸経営のイロハを覚え、サラリーマンとして数年間の社会的実績を作り銀行融資を引いて賃貸経営を始めようと思っていた。
しかし、その数年越しの計画も自分が起業したことにより全てが水の泡となってしまった。
なぜなら賃貸経営を始めてから起業したのではなく、1つも不動産を持たないまま不動産仲介業で起業してしまったのだ。だから、せっかく会社員として数年間積んだ社会的な実績も起業して極小会社の代表となったことで全てが消えてしまった。
起業初期「1つでも2つでも不動産を買ってから起業すればよかった」と何度も思った。
例え毎月数万円であっても、固定収入があるというのは心の安定に繋がる。
ただ、何も後ろ盾がないという背水の陣に追い込まれたからこそ、がむしゃらに働き、不動産仲介業で成果を上げることが出来たのだと思っている。
それはとても苦しい道程ではあったが、どの道に進もうとも全ては自分次第で、多くの人が不正解と言うような道でも、自分なりに正解へと変えていくことが出来るということを学んだ。
誤算を強みに変えて
不動産仲介業で起業したのは誤算だった。
ぼくは仲介業ではなく、賃貸業(大家さん)で独立したかったのだ。
しかし、 その起業してしまった仲介業をやってきたことが賃貸業(大家さん)を拡大していく上で大きなアドバンテージとなった。
現在、ぼくは法人で幾つかの金融機関から融資を受けて不動産を購入している。
法人が新規で融資を受ける際には、必ず法人の事業内容のチェックをされる。
つまり「この会社は何屋なのか?」ということを確認されるのだ。
餅は餅屋という言葉もあるように、どの会社にも専門分野があり、一般的にはそれが会社の強みとして見られる。そして金融機関にとっては「その強みを活かせているか」ということも重要なチェック項目となる。
つまり「本業で稼げていますか?」ということを厳しくチェックされるのだ。
単に預貯金が沢山あったり、差し出せる担保があるかどうかということだけが銀行融資を受けるための強みではない。
当たり前のことだが本業でしっかり収益を上げている、というのは大きな強みとなるのだ。
こういった金融機関の零細企業に対しての融資姿勢は、自社の所在地を営業エリアとする地方銀行、第二地方銀行、信用金庫すべてに問い合わせ、十数行の金融機関と付き合いを重ねていく中で体感したことである。
結果として、ぼくの会社は仲介業を主軸としてこれまで営業してきた。
だから例え賃貸業(大家さん)が上手くいかなくても、仲介業でその赤字を補填することが出来る。
そして自社で借り手を見つけることが出来るということも強みとして評価され、金融機関から融資を受けられる体制を構築することができたのだ。
遠回りして今がある
ぼくは凄く遠回りをしてきた。
もっとも現金で不動産を買えば、誰でも直ぐに大家さんになることはできるが、本業で賃貸経営を行うなら現金だけで不動産を買い続けていくということは現実的ではない。
それはサラリーマンであっても同じである。
2・3年の勤続年数があれば銀行融資を引いて大家さんになることができる。
ぼくにも過去、サラリーマンとして融資を引ける状態はあったが、会社への不満を募らせたあげく脱サラの勢いで起業してしまった。
だから起業してから融資を引いて不動産を買えるようになるまでに3年以上もかかった。
それ以前にも金融機関へ融資の打診をしてはみたものの・・
銀行側の「決算書3期分ありますか?」という問いに「まだ2期分だけです」と答えるしかなく門前払い同然だった。
だから起業して3年間は仲介業者としてがむしゃらに働いた。
安定した固定収入もなかったので、まさに自転車操業の日々だった。
そして時が経ち、決算書3期分を揃えることが出来るようになってからは、仲介業の実績が評価され、ようやく融資を受けることが出来て今に繋がっている。
自分のパトロンを引き受ける
ぼくの心は乾ききっていた。
このお金を稼ぎ続けるだけの3年間は本当に辛かった。
ただ、お金を稼ぐこと以外に何か他のことを考えることもなかったし、それをしようとも思わなかった。だから何か表現をしようなどと思いつきもしなかったし、それを考える精神的な余裕も無かった。
家族の生活と会社を守るため、ぼくは自分の作ったブラック企業の中で働き続けるしかないと思い込んでいた。
ただ、会社を清算して転職するという選択肢も浮かんだが「やれるところまでやってみたい」という意地やプライドみたいなものがあって会社を潰すことはできなかった。
この経験からぼくは思う。
作家でも写真家でも音楽家でも継続的に何らかの表現活動をしようと思うのなら、必ず何かで「稼ぐこと」が重要となってくる。
その「稼ぐこと」とは大金を稼いでお金持ちになるという意味ではない。
自分や家族が慎ましい生活をしていくために必要なお金を「稼ぐこと」である。
ただ、その生活に必要なお金を稼ぐ時間は、なるべく短い方がいい。
例えお金を稼ぐために、朝から晩まで働く高給取りになったとしても、自分の自由に使える時間が少なければ、それはぼくにとっては望ましい状態とは言えない。
ぼくは自分の中に表現者としての自分と、パトロンとしての自分を抱えている。
その2人にどう有限なる時間を配分していくのか。
理想は表現者としての自分により多くの時間を与えること。
誤解を恐れずに言えば、お金を稼ぐことを念頭に置く仕事は、表現者としての自分を助けるパトロンとしての時間に過ぎないのだ。
ただ、パトロンとして唇を噛みしめた時間があるからこそ、心に抑揚が生まれ、表現者としての自分に良い影響をもたらしていることも確かである。
ここで学んだこと
・生きるために必要なお金が不足すると、本来は自分の好きに使えていた時間さえも、生きるためにお金を稼ぐ時間に使わざるを得なくなってしまう。
・何も後ろ盾がないという背水の陣に追い込まれたからこそ、がむしゃらに働き本業で成果を上げることができた。それが会社の信用となり銀行融資を受けて賃貸経営を営める状態に繋がった。
・パトロンとして唇を噛みしめた時間があるからこそ、心に抑揚が生まれ、表現者としての自分にも良い影響をもたらしている。
毎週水曜よる9時更新